2023.08.03

関ヶ原の戦いが起きた場所はどこ?その歴史を感じられるスポットも紹介

facebook

twitter

line

こんにちは!岐阜県で季節の素材を使った創作菓子を販売する「恵那川上屋」です。

 

岐阜県には、歴史上とても有名な「関ヶ原の戦い」が行われた、合戦の地があります。

 

西軍・東軍と2つに分かれ、多くの武将が参戦した関ヶ原の戦いは、天下分け目の戦いといわれ、日本の歴史に大きな影響を与えました。

 

この大きな戦いが行われた場所が、現在どのようになっているかご存じでしょうか。

 

今回は関ヶ原の戦いが起きた「関ケ原」について、場所や名前の由来、その歴史を感じられるスポットについて詳しくご紹介します。

 

岐阜県に来たらぜひ関ケ原を訪れ、日本史を変えた武将たちに思いを馳せてみてください。

関ヶ原古戦場笹尾山

 

 

関ヶ原の戦いとは?現在の場所はどこ?

関ヶ原の戦いとは、豊臣秀吉の死後、豊臣家を守ろうとした西軍・石田三成と、天下を取ろうとした東軍・徳川家康が、全国の有力大名を巻き込んで戦った合戦のことをいいます。

 

場所は美濃国関ケ原、現在の岐阜県不破郡(ふわぐん)関ケ原町です。

 

日本の一大決戦となった関ヶ原の戦いについて、まずは詳しく見ていきましょう。

日本を二分した関ヶ原の戦い

天下を統一した豊臣秀吉の死後、徳川家康は大名同士の婚姻や領地の取引などの禁止されていた取り決めを無視して、力をつけていきました。

 

それに反発した石田三成(いしだ みつなり)は、徳川家康が会津の上杉景勝(うえすぎ かげかつ)に謀反の疑いがあるとして、討伐に出た隙に諸国の大名に呼びかけ、徳川の兵がいる伏見城に攻撃をしかけたのです。

 

石田三成挙兵の知らせを受けた徳川家康は、小山評定と呼ばれる軍議を開き、石田軍との戦闘を決定しました。

 

この時、石田三成を筆頭として西に集結した反徳川派が西軍、それに対抗する徳川家康派が東軍となって、1600年に関ケ原の地で戦うことになったのです。

 

当初有利とされていた西軍・石田三成は苦戦を強いられ、約16万人の大人数が参加した戦いにもかかわらず、わずか6時間程度の時間で東軍の勝利となりました。

 

この決着には、西軍の主要人物が戦いに参加しなかったこと、大名の裏切りがあったことが大きく関わっています。

 

西軍の総大将だった毛利輝元(もうり てるもと)は大坂城にいましたが、関ヶ原の戦いの間中、指揮を執ることもなければ出陣することもなく、大坂城から一歩も出ませんでした。

 

また、関ケ原の南に位置する南宮山に陣取っていた毛利家武将・吉川広家(きっかわひろいえ)も、自陣から全く動かずに戦いを終えたのです。

 

さらに1万人以上の軍を率いた小早川秀秋(こばやかわ ひであき)の裏切りをきっかけに、多くの大名が西軍から東軍に寝返ったり、戦線を離脱したりして、東軍の勝利へとつながっていきました。

 

関ヶ原の戦い後、石田三成は捕らえられて処刑され、徳川家康は征夷大将軍となって、江戸幕府を開きました。

 

関ヶ原の戦いはなぜ関ケ原で行われたのか

関ケ原の地は、古くから東と西を分ける地点と認識されていたため、戦いにふさわしい場所として選ばれました。

 

関ケ原の周囲は小高い山々に囲まれているため、東から見ても西から見ても通り道が限られており、仮にこの地を西軍が制圧すれば、東軍は近江を通って京都・大阪への進出はできなくなります。

 

逆に東軍が関ケ原を超えると、西軍は防衛拠点が少なくなり、戦況としては西軍がかなり不利になるという、非常に重要な地だったのです。

 

日本の未来を大きく変えた関ヶ原の戦いがあった場所は、先ほどお伝えしたように岐阜県にある不破郡関ケ原町です。

 

戦いが繰り広げられた場所のため、広い原野を想像するかもしれませんが、実際は伊吹山地と鈴鹿山脈の切れ目にある小盆地です。

 

現在この地に行くと、のどかな田園風景や石碑、徳川家・石田家の家紋入りの旗が建てられている風景を見ることができます。

 

関ケ原の名前の由来

「関所」のある「原っぱ」が、関ケ原の名前の由来だという一説があります。

 

実は関ケ原では、西軍・石田三成と東軍・徳川家康の関ヶ原の戦い以前にも、天下分け目の戦いがありました。

 

672年に起こった天智天皇の息子・大友皇子(おおとものおうじ)と、天智天皇の弟・大海人皇子(おおあまのおうじ)の間で起こった皇位継承争い「壬申の乱(じんしんのらん)」です。

 

壬申の乱の勝者・大海人皇子は翌673年天武天皇に即位し、新たな天下変乱が起こらないように、この地に関所を設けて通行人を取り締まりました。

 

この関所が日本三大関所といわれる「不破の関(ふわのせき)」です。

 

世の中が静まり必要性がなくなったとして789年に関の機能が停止され、現在は「不破関跡」として残されています。

 

また、この不破の関が作られたのを境に、現在の「関東」「関西」の呼び名ができたともいわれています。

 

 

現在の関ケ原の見どころもチェック!歴史を振り返る旅

関ヶ原古戦場

日本の歴史を大きく変えた関ヶ原の戦いの跡地は、歴史ファンでなくともその史実を知っていれば訪れたいもの。

 

わずか6時間の戦いのため、行動範囲はあまり広くないかと思うかもしれませんが、それぞれの地を周るにはかなりの移動が必要です。

 

レンタサイクルや史跡巡りツアーなどもありますので、効率よく巡ってみてくださいね。

 

では、関ヶ原の戦いに関わる場所をご紹介していきます。

 

開戦地

北天満山の近く、西田運動広場の入口に「関ヶ原古戦場開戦地」の碑があります。

 

現在、この碑の周囲にはのどかな田園風景が望めます。

しかし、慶長5年9月15日(1600年10月21日)は、殺気・緊迫感がすさまじいものだったに違いありません。

 

東軍事前の軍議で、福島正則が先陣を切ると決めていましたが、実際には井伊直政が福島隊の横を通り抜け、西軍・宇喜多隊(うきたたい)の前に進出して発砲しました。

 

この井伊直政の抜け駆けに怒った福島忠政が、宇喜多隊に一斉射撃を浴びせ、この地で合戦の火蓋が落とされたのです。

 

現在標柱の位置は、当時より北寄りに移動しています。

 

住所: 岐阜県不破郡関ケ原町大字関ケ原2368-1

 

岡山(丸山)烽火場/黒田・竹中陣跡

合戦時の重要なポイントである南宮山・松尾山・笹尾山・中山道・北国街道・伊勢街道などが一望できる岡山(丸山)です。

 

周辺の状況が把握しやすい山であるため、開戦の烽火(のろし)があげられた地です。

 

竹中重門(たけなかしげかど)・黒田長政(くろだながまさ)で陣を取り、戦機を見て狼煙を上げたことから、黒田・竹中陣跡もあります。

 

住所:岐阜県不破郡関ケ原町732-27

 

石田三成陣跡

開戦地より北に位置する笹尾山に、石田三成の本陣だった「石田三成陣跡」があります。

 

現在は当時を復元し、敵の攻撃を防御する竹矢来(たけやらい)・馬防柵(ばぼうさく)が設けられています。

 

笹尾山は、山というより小高い丘ですが、関ヶ原一帯を見渡せる要地です。

 

合戦開始当初は西軍優勢でしたが、小早川秀秋の裏切りにより一気に戦局が変わり、西軍が追い詰められていきました。

 

石田三成はここからどのような気持ちで戦況を見ていたのか、感慨深いものがあります。

 

麓には「三成には過ぎたるもの」といわれた家臣・島左近(しまさこん)陣跡もあります。

 

住所:岐阜県不破郡関ケ原町大字関ケ原4008

 

決戦地

石田三成の本陣、笹尾山を背にした場所に「決戦地」があります。

 

現在はのどかな田園が広がり「関ヶ原古戦場決戦地」の大きな碑と、徳川家・石田家の家紋入りの旗が立っています。

 

西軍有利で始まった戦いが、小早川秀秋の寝返りによって戦局が一気に逆転しました。

 

この場所は東軍が石田三成の首を狙う、最大の激戦地となったのです。

 

住所:岐阜県不破郡関ケ原町大字関ケ原1202

 

徳川家康最後陣跡

JR関ケ原駅のすぐ近く、陣場野公園に「徳川家康最後陣跡」があります。

 

現在残る周囲の土塁や中央の土壇は、幕府の命を受けた領主・竹中家によって後に築かれたものとされています。

 

徳川家康は合戦当初本陣を桃配山としていましたが、東軍の戦況が不利になると、石田三成の本陣・笹尾山のすぐ下(直線距離で800m)まで進軍し本拠地を構え、士気を高めました。

 

ここからの伝令により、鉄砲で威嚇をして松尾山の小早川秀秋を寝返らせ、東軍の勝利へと導いたのです。

 

床几場(しょうぎば)であったこの場所は合戦後、首実験が行われました。

 

住所:岐阜県不破郡関ケ原町大字関ケ原959-2

 

このほか、JR関ケ原駅前に開館した「関ケ原駅前観光交流館」、そこから徒歩5分ほどの場所まとまってある「松平忠吉・井伊直政陣跡」「田中吉政陣石」「関ケ原町歴史民俗学習館」「関ヶ原古戦場記念館」などもおすすめです。

 

関ヶ原古戦場記念館については、特に見どころ満載なため、次で詳しくご紹介します!

 

 

関ヶ原の戦いを振り返るなら、関ヶ原古戦場記念館もおすすめ!

騎馬武者

関ヶ原の陣跡に行くなら、ぜひ立ち寄っていただきたい場所が「関ヶ原古戦場記念館」。

 

基本情報は以下の通りです。

  • 住所:岐阜県不破郡関ケ原町関ケ原894-55
  • アクセス:車で東名・名神高速道路「関ケ原IC」から北進約5分/JR東海道本線「関ケ原駅」徒歩10分

 

ここには関ヶ原の戦いに関する資料や解説が数多くあるので、当時の合戦について知見が広がり、各陣跡の見方がさらに深いものとなるでしょう。

 

関ヶ原古戦場記念館のおすすめポイントをご紹介します。

 

グラウンド・ビジョン

縦4.7m・横7.7mの巨大な床面スクリーンを使用して、合戦当日に向けた武将たちの動きや、合戦の規模の大きさを解説します。

 

俯瞰で眺めながら解説を聞くので、理解が深まります。

 

予約のお客様の入場を優先しているため、確実に映像を見たい方は、前日15時までに予約をしましょう。

 

シアター

縦4.5m・横13mの楕円形のスクリーンは、その迫力に圧倒されます。

 

風や振動、光と音の演出によって、兵士の目線で合戦に紛れ込んだような臨場感を味わえるシアターは一見の価値があります。

 

予約のお客様の入場を優先しているため、確実に映像を見たい方は、前日15時までに予約をしましょう。

 

戦国体験コーナー

刀剣や火縄銃などのレプリカがあり、実際に持って重さを体験できます。

 

陣羽織(じんばおり)や兜(かぶと)をかぶって記念写真を撮ったり、撮った写真をQRコードで読み取って画面の中で戦国武将と共演したり、子どもから大人まで楽しめるコーナーです。

 

展示室

東西両軍の各隊の武将や馬鎧(うまよろい)が詳しく描かれている「関ヶ原合戦図屏風」は、関ヶ原の戦いの名場面が随所に見られ、大変興味深い展示品です。

 

他にも、国内トップレベルと言っても過言でないほど精巧に作られた甲冑の複製は、必見です。

 

展望室

360度全面ガラス張りの展望室からは、現在の関ケ原を見渡せます。

 

四方に散らばる合戦の痕跡を一望でき、まるで巨大なジオラマを見ているかのようです。

 

古戦場巡りへ出かける前に展望室で当時の布陣を頭に入れておくと、面白さが増すことでしょう。

 

売店ショップ

売店ショップには、関ヶ原の戦いに関するグッズの他、県内の美味しい食べ物やお酒などを販売しています。

 

岐阜県には「美濃の和紙」「飛騨の家具・木工」などの伝統工芸品が数多くあります。

 

おすすめの岐阜県産品をセレクトして販売しているので、お土産にいかがでしょうか。

 

レストラン&カフェ

関ヶ原古戦場記念館レストラン「伊吹庵」があります。

 

関ヶ原の戦いに参戦した武将をイメージしたユニークなメニューや、スイーツがあるので、古戦場巡り前に腹ごしらえができますね。

 

岐阜の伝統工芸品や郷土料理については以下のコラムで詳しくご紹介していますので、ぜひご覧ください。

 

岐阜県の伝統工芸品とは?工芸体験ができる施設も紹介

岐阜県の郷土料理とは?種類や特徴をご紹介

 

関ヶ原古戦場記念館では、関ヶ原の戦いに関する名所や古跡を案内するツアーもあります。

 

レンタサイクルもありますので、うまく活用して有意義な史跡巡りをしてくださいね。

 

 

関ヶ原の戦いがどこで起きたか思いを馳せ、実際に行ってみよう!

西軍・石田三成、東軍・徳川家康の日本を2つに分けた大決戦、関ヶ原の戦いは交通の要衝である岐阜県不破郡関ケ原町で起こりました。

 

当初西軍有利で始まった戦いも、大名の裏切りにより次第に東軍有利に。

 

小早川秀秋による寝返りが勝敗を決定づけ、東軍・徳川家康の勝利となったのです。

 

現在この歴史的な戦場のあった場所は、石田三成陣跡・開戦地・決戦地・徳川家康最後陣跡などとして残されています。

 

また、関ヶ原の戦いの理解をより深める場所として、関ヶ原古戦場記念館があります。

 

映像や展示品だけでなく、展望台から一望できるまるでジオラマのような関ケ原は、当時の武将の戦いぶりを想像するのに一役買うことでしょう。

 

関ヶ原の戦いの古跡巡りの際には、ぜひ訪れてみてくださいね。

 

恵那川上屋岐阜高島屋店では、岐阜の名産である栗を使ったお菓子や、季節の創作菓子がそろっています。

 

岐阜県のお土産をお探しの際は、ぜひお立ち寄りください。

facebook

twitter

line

EC誘導フローティングバナー4月

閉じる